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吉岡会長、創業者を思う。 | |
![]() 創業者 故吉岡忠一(平成3年) |
会長(故 吉岡忠一)が晩年に記した「私の経歴書」をあらためて読み返した。 経歴書は、明治41年5月14日の誕生から始まり、大正15年4月9日に海軍兵学校第57期生となり、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の成功、昭和17年6月5日のミッドウェイ強行攻撃の失敗、昭和20年8月15日無条件降伏へと続いている。 そして昭和26年2月1日吉岡興業の前身吉岡商会を唯一人で創業したところで結ばれている。 経歴書のそのほとんどが、愛国心に燃えた若き青年将校の生々しい生き様についてであった。 その後、昭和31年8月1日に吉岡興業株式会社を創立したが、故人の根本に流れている精神は、生涯を通じて日本を愛する愛国心の強い一人の男としてのものであった。 その精神は、商売を始めてからは、社員やその家族を、我が子のように愛することに向けられ、良き経営者であったことを私自身誇りに思っている。 幼心にも、故人が毎年母と特攻隊の出撃基地であった鹿屋に訪れていたことが、強く思い出として焼き付いている。 昭和61年の夏、後継者問題に悩んでいる故人を見るにつけ、それまで、サラリーマンとして安穏とした生活を送っていた私も、さすがに傍観できず「退職して吉岡興業を継ごうかと考えている。」と相談したときの、故人の嬉しそうな顔が今も忘れられない。後を私に託した故人は、現状に満足してくれているのだろうか? 創立50周年を機に、故人の遺志をしっかりと受け止め、社会に役立つ企業へと更なる発展を目指し、なお一層心を引き締め、社業に邁進してゆく決意を、新たにする。 吉岡興業株式会社 取締役会長 吉岡昭 平成18年8月1日記 |
![]() 創業の頃(昭和31年) |
八木下顧問、創業者を思う。 | |
![]() 江田島海軍兵学校在学時 (昭和3年) |
○気力に欠くること無かった人 海軍兵学校、海軍大学を首席で卒業、旧海軍を担う逸材として将来を嘱望されながら、37歳の時点で、その輝かしいキャリアは敗戦とともに無に帰した。 当時、茫然自失する人が多い中で、敢えて既存の組織の傘の下に入ることなく、徒手空拳、知識も経験も無く、いままでの経歴も一切通用しない実業の世界に身を投じた。 午前はリュックを背負い自転車に乗って、お得意先を回って注文をとり、午後は、大阪の問屋さんで商品を仕入れ、翌日配達するという毎日を続けるなかで、次第に信用を積み重ね、どなたの真似でもなく受け売りでもない独自の経営理念、経営手法を、自らの体験の中から打ち立てた人であった。 ○努力に憾み無かった人 60歳を過ぎて、経営者として多忙を極めるなかで、神戸商工会議所の懸賞論文「神戸中小企業の振興発展策」に応募、4名の専門家とともに実業界からはただ一人入選、高い評価を得た。 趣味で始めた俳画は玄人はだしで、毎年暮れには、何百枚もの直筆の書画を書き上げ、お客様に喜んでいただいたものであった。 早朝の体操を欠かさず、NHKの国語、数学、英語などの講座を聴いて、常に基本に立ち返る努力を怠らなかった人でもあった。 ○至誠に悖ること無かった人 吉岡興業が50周年を迎える事が出来たのは、ひとえに、お客様、関係先様のご支援あってのことであるが、このようなご愛顧を得る事が出来たのも、先代吉岡忠一社長が、誠をもって商売をさせて頂く姿勢を貫き、全社員がその姿勢を共有できたからだと思う。 私たちは、単に創業者というだけではなく、私たちの生きていく姿勢、仕事に対する取り組み方を、自ら身をもって示してくれている、世間に誇るべき「人生の先輩」を身近に持っていることを改めて自覚し、創業の原点に立ち返って、さらなる会社の発展を図って行かなければならない。 顧問 八木下 裕 |
![]() 趣味であった俳画 |
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明治生まれの 古き良き日本人としてのエピソード |
![]() 創業者 故吉岡忠一の結婚式の写真(昭和 9年) ![]() 前列・左から2番目が創業者 故吉岡忠一 |
○私利私欲が全くない、公平な方でした。 (50代男性社員) |
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○納税意識が非常に高く、税金をたくさん払うとご機 嫌でした。 (50代男性社員) |
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○白いご飯に醤油をかけて食べていたら、激怒され たことがあります。 (社長) |
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○私の足の骨にヒビが入り、松葉杖をついていた 時、わざわざ席まで来てくださり、「お見舞いだよ」 と言ってお見舞金を頂き、とても嬉しかったことを 思い出します。 (50代女性社員) |
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○お客様から「会長(故 吉岡忠一)は、本当に腰の 低い方だった」と聞いたことがあります。 (40代女性社員) |
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○いつもあたたかいお言葉をかけてくださいました。 年賀状も自筆の絵に、必ず心のこもった一文をつ けて下さいました。 (50代女性社員) |
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○一言で表現すると「誠心誠意の人」です。全てに対 し一生懸命に取り組まれていました。客先でトラブ ルがあれば、必ず同行して、深々と頭を下げられ 、内容については一切口を出されませんでした。 しかし、吉岡忠一氏が来て頭を下げられたという ことだけで、そのトラブルは解決へと向かっていき ました。非常に人望の厚い方でした。 (50代男性社員) |
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○女子社員からのバレンタインデーのチョコレート を、毎年楽しみにされていたり、忘年会をフラン ス料理店で行ったりと、とてもモダンな方だと感じ ました。 (30代男性社員) |
![]() 女子社員達に囲まれて |
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○会長(故 吉岡忠一)の信念は、「お客様に真心 をお届けする」であった。 今も、我々は、常に、真心を持ってお客様と接 することを忘れてはならない。 (50代男性社員) |
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○一番心に残っている出来事は、私が入社して 3ヶ月ぐらいの頃、私の誕生日にバースデーケ ーキを頂いたことです。 「おめでとう」という暖かいお言葉も頂きました。 社内でも、いつもにっこりと笑って、「がんばっ ていますか?」など、お声をかけて下さいました。 (30代女性社員) |
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○つい先日、、会社の帰り道のことですが、通り すがりのご年配の方に、「会長(故 吉岡忠一) が亡くなられてから、どれくらい経ちますか? あんなにお元気だっただけに、まだ信じられま せん。残念です。」と声をかけられました。 いきなり面識のない方に話しかけられて驚いた 反面、「この方は、吉岡興業の会社の前を通る たびに、会長のことを思い出してくれていたの だ。」と感動しました。 |
○近所の喫茶店には、会長(故 吉岡忠一)の専 用の席があり、店長さんはいつも会長(故吉岡 忠一)を待ってくれていたそうです。 しばらく姿を見せないと、心配して会社まで尋ね て来られたそうです。 (30代男性社員) |
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![]() 60歳からはじめた俳画の作品 |
○会長(故 吉岡忠一)が椅子から落ちて骨折をし、 入院されていたときの話です。 当時会長(故 吉岡忠一)は、小切手と支払手形に 、直筆で署名をされていました。 ですから、月末近くになると、私は、会長(故 吉岡 忠一)の署名を頂きに,、病院に行っていました。 会長(故 吉岡忠一)はベッドに座りながら署名をさ れていましたが、さすがに100枚を超えると疲れて きて、段々と字が乱れていました。 しかし、最後の一枚を署名し終えると、ホッとした 顔になられていました。 会長は自分が良いと決められたことはいくら辛くて も黙々とやる信念の強い人(明治生まれの気骨の ある人)でした。 又、会長(故 吉岡忠一)は常々、「人に悪い事をさ せないように、自分は人に注意をしてゆくのだ。」 と言われていました。 (50代男性社員) |
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○社有車を、走行距離の自己申告で(ガソリン代 だけの社員負担で)自家用車代わりに使って 良いとされたのは、会長(故 吉岡忠一)の発案 だったそうです。 (30代女性社員) |
![]() 旧本社前でのスナップ(昭和55年) |
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○会長(故 吉岡忠一)は休まずよく働くことを前提 に、給料において業界一を目指しておりました。 給料以外にも、当時業界としては、真っ先に、 エアコン車の導入、オートマチック車の導入を されました。 (60代男性社員) |
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○60歳を過ぎた頃から、小学6年生用の通信教育を 受けられ、常に100点満点にチャレンジされていま した。 (社長) |
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○海軍時代の若かりし頃の写真を見せてもらった 時のこと、「男前だろ?」とお茶目な笑顔で話さ れていたのが懐かしく思い出されます。 (40代女性社員) |
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○会長(故 吉岡忠一)について思い出されるのは、 「記憶力のすごさ」「全てに平等」「深い思いやり」 この3点です。 本当に、素晴らしい方でした。 (40代女性社員) |
○非常に威厳があり、社員が常に良い緊張感を 持って仕事が出来る様、御指導・御配慮され、 大変立派なお方であったと聞きました。 (30代男性社員) |
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○自分に対しても人に対しても厳しい方だったと 聞いております。 90歳近いご高齢にもかかわらず毎日の様に出社 されていました。 そして方々からの電話に出られていました。 あのお歳でそんなにお電話されてくる先があると いうことは、よほど慕われていたのだとうかがい 知れます。 (30代女性社員) |
○起業時、昭和20年代、白のスーツできめられ、 油まみれのリヤカーをひきながら商売をしていた という話が、とても印象深く胸に残っています。 (30代男性社員) |
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![]() 幸福な晩年、夫婦でのスナップ |
○「いざという時使えるように、サイフの奥に必ず 一万円札をしまっておきなさい。」と言われたこと があります。 今も、必ず、一万円札を持って歩くようにしてい ます。 (50代男性社員) |
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○会長(故 吉岡忠一)が帰られる時、2階の階段が 暗く危ないので「ここにスイッチがありますから必 ず点けて上がり下りして下さいね!」と、孫がおじ いちゃんに言うようにしつこく言ってしまった事を 思い出します。 「あぁここだね」と優しく聞いてくれました。 又この階段で「社長は立派だよ。売上げを倍にし たのだからなぁ。」としみじみ言われていました。 本当に嬉しそうでした。 これからの吉岡興業の発展を安心して見守られて いたのだと思います。 私は、会長の事が本当に大好きでした。 尊敬しておりました。 今でも社長室のお写真のほうに向かってご挨拶し ています。 会長(故 吉岡忠一)の事を思い出すと今でも涙が 出ます。 会長(故 吉岡忠一)ありがとうございました。 (50代女性社員) |
最後に | ||||||
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弊社ホームページをいつもご覧頂き、誠にありがとうございます。 弊社は、平成19年8月1日創立50周年を皆様のおかげで迎えられましたが、これを機に、社員一同初心に戻る意味で、社員の発案により、50周年特別企画「創業者 故 吉岡忠一を紐解く」を、五回にわたりホームページに掲載させて頂きました。 創業者の考え方、弊社の生い立ちにつき、いささかでもご理解賜れたとすれば、望外の喜びでございます。 |
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現在の社員で会長(故 吉岡忠一)と接した社員はほんの数人ですので、どのような内容となるか、若干気がかりであったのですが、会長が残した写真あるいは書物、又、昔からの会長にまつわる話などから、社員1人1人が、息子の私以上に会長の真の姿をつかんでいてくれたことを示す内容になったのではないかと思っております。 |
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昨今、連日新聞報道などで、若い子供達のいじめによる自殺、或いは我が子を殺めるといった想像も出来ない出来事などをまのあたりにするにつけ、会長が常に社員に話していた、家族の健康、家族との団欒、家庭の幸せといったあたりまえのことが、社会の基本であるということを、改めて感じさせられております。 50周年を機に、社員とそのご家族ともども一致団結して、会社のさらなる発展に努めて参る所存であります。 なにとぞ、今後ともよろしくご指導の程、お願い致します。 特別企画終了にあたり、ご覧頂きましたことに対し、心からお礼申し上げる次第でございます。 以上 |
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吉岡興業株式会社 | ||||||
取締役会長 吉岡 昭 | ||||||
平成18年12月1日記 |