吉岡興業50周年特別企画 創業者の志

創業者が最年少参謀として参加した真珠湾攻撃から帰国直後の連合艦隊記念撮影

創業者の志 その三

「生涯、海軍魂を持った軍人としてのエピソード」

いつも足をビシッと揃え、まさに軍人という感じで、他の人とは違う強い印象が残っていると、当社がお世話になっている会計事務所の先生からお聞きしたことがあります。 (30代女性社員)

朝礼で、戦争の話をよくお聞きしました。私の父も戦争に行っていました。命の尊さ、人への思いやりは、一層深いものがあったと思います。創業者は、自分自身にも人にも常に厳しくされていました。創業者が江田島海軍兵学校で唱和されていた”五省“は、今も当社の朝礼で、毎朝唱和されています。(50代女性社員)

創業者は、毎年親しい方に味噌を贈っていました。第二次世界大戦末期、戦場で部下の方が死ぬ間際、「家に帰って味噌汁が飲みたい。」と言って亡くなられたそうです。その戦友のことを思い、贈り物を味噌にされていたそうです。創業者の戦友に対する思い、礼節は、人として素晴らしいと思います。(30代男性社員)

よく朝礼で、創業者は話をされていましたが、最後は戦争の話となり、倒れそうになる者も出る程長い時間(30分〜1時間)話されることもありました。お客様からも「長い朝礼だったなあ。」と冷やかされましたが、創業者の基本的なものの考え方が分かり、大変参考になりました。「将の礼」「5分前の励行」等々、今も私の考えの基本となっております。(50代男性社員)

江田島海軍兵学校や海軍大学を首席で卒業され、天皇陛下から時計や刀剣を賜ったと子どもの頃聞き、尊敬していました。「うしろが断崖絶壁で、目の前が火の海だったらどうする?」と小学生の私が帰省するたびに問うてこられたのを思い出します。(副社長)

創業者の乾杯の音頭はいつも、「日本国の発展」「皇室のご発展」「天皇陛下のご健康」を祝してでした。まさに、海軍魂の人でした。(社長)

第二次世界大戦で真珠湾攻撃に最年少の航空参謀として参加されたとお聞きしました。戦争シミュレーションゲームに、創業者のお名前が出てくるそうです。(30代男性社員)

創業者は第二次世界大戦において、歴史的人物であったようです。それが、当社をも歴史的な伝統的な会社と位置付けていると感じます。(20代男性社員)

山本五十六や源田実といった歴史的軍人たちと将棋をさしておられたそうです。また創業者の社葬が大変盛大であられたことで、歴史的人物であったことを再認識いたしました。(30代男性社員)

営業車がすべて三菱自動車製だった頃があるそうです。創業者の「三菱製のゼロ戦は故障が少なく性能が良い」という意見からだと聞きました。(30代男性社員)

終戦間際、創業者はフィリピンで戦われていたそうです。食料、弾薬のほとんどない状態で、投降時には、部隊の人員が当初の5%になっていたそうです。フィリピンでは捕虜として捕まり、連合軍からの取調べで、水牢に何日も入れられていたそうです。(50代男性社員)

終戦時フィリピンで捕虜となった創業者(故 吉岡忠一)は、一貫して、日本の戦争の正当性を主張されていたそうです。この気概は、今の日本では忘れかけられていると思います。(60代男性社員)

江田島海軍兵学校卒業式のスナップ
(昭和4年)

中列・左から3番目が創業者 故吉岡忠一

海軍大学校卒業式のスナップ
(昭和19年)

中列・左から3番目が創業者 故吉岡忠一

上海ウーサン飛行場でのスナップ
(昭和13年)


創業者が最年少参謀として参加した真珠湾攻撃から帰国直後の連合艦隊記念撮影
昭和16年12月24日 広島湾桂島錨地在泊の第一航空艦隊旗艦赤城の飛行甲板にて
(第1列右から8人目が連合艦隊司令長官 山本五十六大将 第4列左から7人目が創業者 故吉岡忠一)

創業者は、第二次世界大戦時、海軍の要職であったので、戦後はいつも心を痛められていたことと思います。毎朝、戦死された方々の為に、お詫びとお祈りをされていたそうです。戦争中にあっても、敵国の戦死者の為に、創業者の指示のもと、部下全員で黙祷を捧げられていたそうです。戦いの中にあっても、人間として、本当に立派だと思いました。(50代男性社員)

創業者は、社内の組織を第二次世界大戦時の軍艦の名前で呼んでいた時期がありました。(50代男性社員)

よく海軍時代のお話をしてくれましたが、何十年も前の月日、場所、人物名、その時の会話のやりとり等々、一つ一つ鮮明に覚えておられ、昨日のことのようにすらすらと話をされていました。(40代男性社員)

真珠湾攻撃時の貴重な航空写真

真珠湾攻撃時のスナップ
(航空母艦赤城にて 左が創業者 故吉岡忠一)