なぜ、会社に、理念は必要か?

なぜ、会社に、理念は必要か?

結論から言うと、会社に、理念は必要である。

全従業員と経営者が、従業員と従業員が、目標を共有化することは大切なことである。しかし、目標を共有化するだけでいいのか。

たとえば、原材料のコスト削減という目標を共有化している食品メーカーの工場長たちがいる。その工場長会議。
会議の議長である社長に、ひとりの工場長が絶賛されている。ほかの工場長たちは怒鳴られている。
「○○君を見習わんか!君達が出来ない言い訳をしている原材料のコスト削減を、彼は原材料を一括大量購入することで実現しているんだぞ!!」
怒鳴られている工場長のひとりが、社長に勇気をもって進言する。
「しかし、社長、この天候不順のなかでの原材料の一括大量購入は、原材料を余らせてしまう危険だってあるんです」
社長はさらに怒鳴り声をあげる。
「君達は、駄目だと決めつけていつもすぐ諦める!現に、○○君は原材料を余らせずにうまくやっているじゃないか!すこしは彼を見習いたまえ!!」

一年後、原材料のコスト削減を原材料の一括大量購入で実現していた工場長が、社長に怒鳴られていた。
「この大馬鹿者が!なんてことをしてくれたんだ!」
原材料のコスト削減を原材料の大量一括購入で実現していた工場長は、実は需要と供給を読み切れずに原材料を余らせていた。余った原材料は、やがて賞味期限が切れる。それを廃棄していたのでは、さらにその廃棄代がかかってしまう。その工場長がとった行動とは・・・・

社長は、彼を怒鳴り続ける。
「賞味期限切れの原材料を使って製造していただと!マスコミは大騒ぎだぞ!うちの株価もストップ安だ!我社は倒産するぞ!このバカヤローが!!」

今、世の中は、商習慣と呼ばれて許されていたものが、許されなくなってきている。正しい真っ当なものへと変化してきている。

前述の食品メーカーは、賞味期限切れの原材料を使って製造していた工場長をクビにするだけでは、世の中から許してはもらえなかった。
社長が辞任しても、世の中から許してはもらえなかった。
その半年後、この食品メーカーは、世の中から退場を命じられた。つまり、倒産した。

このように、例えば「原材料のコスト削減」という目標を共有化するだけでは、世の中から退場を命じられるかも知れないのである。
目標というゴールを共有化するだけでは、会社が永遠に存続してゆくには足りないのである。公共性に満ちた考え方や価値観をも共有化しなければ、同じくしなければ、会社は永遠には存続してゆかないのである。
故に、会社に、理念は必要なのである。
なぜなら、理念こそが、公共性に満ちた考え方や価値観そのものだからである。

違う角度からも考察してみよう。

上司の仕事とは、じぶんの時間と体と心を部下に使って、会社の思いを実現することである。
上司の使命とは、じぶんの時間と体と心を部下に使って、会社の思いを実現してゆく過程で、部下を成長させてゆくことである。

しかし、部下から見て上司が、上司から見て部下が、おたがい気の合う者同士であるということが一体どのくらいの確率で起こるのだろうか。
部下が上司を選べないのと同様に、上司も部下を選べない。社会の常識である。

あなたが、気の合う部下ばかりを持つ上司であるのなら、その幸運を神様に感謝すればいい。あなたはじぶんの言葉で、部下を褒め、ねぎらい、叱り、モチベートし、育成してゆけばいい。
しかし、世の中そう甘くはない。
あなたは、あなたの大半の部下と気が合うことはないだろう。
性格も世代も違う部下と、いや、性別までもが違う部下と、気が合うはずがない。
そんな部下をじぶんの言葉で、褒め、ねぎらい、叱り、モチベートしてみても、部下のこころにあなたの声は届いてはゆかないだろう。
あなたと気の合わない部下は、あなたの話なんぞ最初から聞いていないのである。
それでもあなたは上司。じぶんの時間と体と心を部下に使って、会社の思いを実現するのがあなたの仕事。その過程で、部下を成長させてゆくのがあなたの使命。なのに、じぶんの話を聞かない部下・・・・

そんなとき使えるのが、理念なのである。
コミュニケーションツールとしての理念なのである。

「なあ、うちの会社の理念に書いてるだろ、な、君ならわかるだろう」
「毎朝朝礼のとき唱和してるアレだよ、俺が君に言いたいのはさ」
「うん、いちど、うちの理念に立ち戻って考えてみようか」

などなど、使える使えるコミュニケーションツールとしての理念。
あなたの話を聞く気のない部下も、公共性に満ちた考え方や価値観である理念を使って話されると、一応聞かざるをえないのが、会社組織で働くことを選んだ者の性なのである。

このようにふたつの理由により、会社に、理念は必要なのである。
ひとつには、会社が永遠に存続してゆくために共有化する公共性に満ちた考え方や価値観として。
ふたつめには、上司と部下のコミュニケーションツールとして。

もし、理念がなければ、会社は世の中から退場を命じられる事態に陥るかもしれない。
もし、理念がなければ、部下とのコミュニケーションがとれない上司は、部下を切り捨ててしまい、会社からは上司としては使えないという烙印を押され、じぶんの上司としての地位を失うかもしれない。

しかし、理念があれば、会社が世の中から退場を命じられる可能性は限りなく低くなり、会社は永遠に存続してゆくだろう。
理念があれば、上司は気の合わない部下ともコミュニケーションがとれ、おたがいに承認し合え、組織のモチベーションは高まり続けるだろう。

京セラ創業者である稲盛和夫氏は、こう言っている。
≪「その会社が、どのような山に登ろうと思っているか?」、「その会社が、自社のあるべき姿を、どのようなものにしたいと思っているか?」、これらはその会社の理念によって決まる。≫
会社が、大して高くもない理想(山・あるべき姿)を抱いているだけならば、理念は必要ないかも知れない。しかし、大義ある志に満ちた高い理想(山・あるべき姿)を抱いているならば、理念は絶対に必要だ。
六甲山なら「軽装」で、しかもたった「ひとり」でも登れる。
しかし、エベレストだったらどうだろう。「軽装」で、しかもたった「ひとり」で登ったとしたら、間違いなく死ぬ。エベレストを登るには、「重装備」が必要なのだ。それだけではない。エベレストともなれば、何十人というパーティー、スポンサーも含めれば何百人という「仲間たち」と共に登ることになる。
もちろん、私たちの目指す山(理想・あるべき姿)は、エベレスト級の山だ。だから理念という「重装備」が絶対に必要なのである。だから、理念という「公共性に満ちた考え方や価値観」を、この山を共に登る「仲間たち」と共有化してゆくのである。

最後に、会社は法律上、「法人」と呼ばれている。これは、会社というものが法律によって「人」として認められているということだ。つまり、「自然人」と同じように、会社は「人」としての権利・能力を認められているということなのである。
「人」は、<人格>によってその人物の器が他者に判断される。
これにならえば、「法人」つまり会社は、<理念>によってその会社の器が世間に判断される。
「人」であれば日々<人格>を磨き続けてゆくことで、会社であれば日々<理念>を磨き続け共有化し続けてゆくことで、私たちは、「公共性に満ちた考え方や価値観」を世に顕現し続けてゆくことが出来るのである。

以上、会社に、理念は必要なのである。